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November 21, 2009
今はアートですら細分化されて枝葉になっていますけど、宗教や科学なんかも根っこの部分では一つだった筈です。その人間の行為の大元に戻っていくと、“生まれてきたからには世界を全身全霊で際限なく味わいたい”という欲望が根っこにある気がする。余す事なく世界をまるごと味わいたい、そういう欲求に忠実になった時、創造する人もいれば、破壊に走る人もいる。だから、力の使い方を間違えたら、アーティストと狂人は紙一重だと思うし。アートにもし本当に役割があるとするなら、制約を壊すこと、に尽きると思いますが、新しい価値を生み出すというよりは、日々作り上げてきた制約を一旦解除して人間が持っている本然を呼び戻す、一年に一度のお祭りの様なものが本質なんだと思います。
少し前から日本語の祖語に興味が湧いてきて。日本語だって他の国の言葉がいろんなところから入ってきていますよね。例えば“虹”の語源といわれている「ニヒチ」はポリネシアの言葉で、“いつのまにか大きくかかる”っていう意味です。いろんなものに使えてイメージが“虹”に限定されていない。「ニジ」と言ってしまうより、「ニヒチ」と言ったほうが“虹”には感じられない言霊みたいなパワーが感じられる。全く個人的な感覚ですが…。最近は英語でタイトルを付けるのもやめたくなったし、かといって今の日本語をそのまま使うのも・・・・・・あまりにイメージが付きすぎているというか、意味が限定されてしまうので。もっとイメージが広がる様な、全体を言い表してしまうような言葉が使いたくなりました。
あまり誰も簡単には言ってくれないけども、アートって単純なことだと思うんです。たとえば、最近、家でピアノを弾いていると鳥が集まってくるのですが。まあ、ただ木の実を食べに来ているだけだと思いますが、音を鳴らすと窓の傍に寄ってきて鳴くんですよ。なんか幸せで。そういうとき、音楽とか絵ってこういうことやったんだと改めて思います。もし口笛を吹いて、鳥がピーチク鳴いて返したら、何かが通じたような気がしますよね。ぼくはその口笛の音がアートやと思うんです。音がなかったら小鳥とは繋がれなかった。木が風になびく動きにあわせて自分の身体を動かしてみたときに、 風や木と自分が結びついて、一体化できる。本来結びつかないもの同士を結びつける、通路のようなものがアートだと思います。そういう事は言葉では分かっていたのですが、この歳になって、ようやく実感として身体に入ってくる様になりました。
それこそ洞窟壁画の時代から、アートってそういうものじゃないですか。洞窟壁画を実際に模写した印象では、あれは動物の姿を美しく描こうとか大群の動きを緻密に描こうというより、描いている人も見ている人もトランスさせることを目的にしている気がします。壁画が描かれた洞窟は入口が狭く奥は広い。音が鳴り響く構造になっていて女性の子宮をイメージさせる場所です。生まれたての自分に戻れるような場所を自然に選んでいたのかもしれません。人間が集まれば社会が出来ますし、古代の人も現代人と求めているものは変わらなかったと思います。日々の制約や社会のルールを一度壊して赤子のような状態に戻るためにアートがあるのだと思います。
僕は決して中心ではなく、祭りに参加する一人として関わりたかった。僕の役割は、祭りの流れを用意すること。関わってくれた人たちに伝えたのは、「自分を自分足らしめるものに恥じない仕事をして欲しい」、ただそれだけでした。細かな要望は、あまりしませんでした。大雑把で抽象的なことしか伝えませんでしたが、一人残らず素晴らしい仕事をしてくれました。

「山と少年と唄」



彼らが開く音楽のコンテストなら面白い。晴天の下、挑戦者は向こうにそびえる山々に向かって音楽を奏でます。技術や技量を競うのではありません。音楽を判断するのは人間ではないからです。判定は、山がくだします。これが中々に手強い。挑戦者は思いの丈、生きる力を振り絞って、音を奏でますが、山は、うんともすんとも言いません。いよいよ、少年の番が回ってきました。彼の中には、深い悲しみがありました。「あなたは私にたくさんの命を与えます。私はもらうばかりで、与えるものが何もない。せめて、この身体を与えたい、とも思いますが、私の命は生きろと言います。せめて、あなたを楽しませたい。どうか、聞いてやって下さい。」少年は、山が楽しんでくれることを想い、唄が身体から溢れ出しました。永遠とも一瞬とも思える時間が流れました。辺りが静まり返った頃、山が、山々が、ろうろうとした、素敵な調べを少年に送り返しました。集まった人々は、その年のチャンピオンになった少年と共に、夜が明けるまで祝い続けました。

高木正勝

メロディーが自然と紡ぎ出されていきます。音階とは別に、その曲で立ち上げたい「気配」も説明します。先ほどの曲だと「発した音をどんどん空間に溜めていって、最終的に音で空間に穴を開ける」そんな説明をしました。
部屋の窓を開け放って、ピアノの前に簡単な録音機を置きました。演奏中はずっと録りっ放しです。まず、少し音を出して、その音をきちんと追います。壁、天井、床が共鳴しているのが分かります。そうなると部屋を演奏している気持ちになります。庭に生っている木の実を食べにきたのでしょう、鳥が沢山集まってくるので、そちらにも感覚を伸ばします。通りから聴こえるおばさんたちの声にも伸ばして、、音の届く限り感覚を伸ばし続ける。土地そのものを演奏している感覚。次に身体へ。指から腕へ、血に、血の奥の奥の方に感覚を伸ばす。そうすると、思いがけなく、曲が生まれてきました。
世界を旅する中、骨の随までしびれた、それらの音体験を思い返すと、不思議な共通点があります。それらの音を現地で聞くと、耳の内の内側まで入ってくる様な奇妙な感覚を覚え、目の前で演奏しているのに何処か遠くの方から届いてくるような、不思議な聴こえを味わいます。そんな空間の広がりと共に、根の如く広がる奥深さを同時に味わいます。唄い手に流れる長い歴史を伴った血や想い。それらがまるで大気や大地と共鳴しているような響き。そこには唄い手や演奏家の顔は、もはや存在していません。ただ音が大気に溢れて包み込む。
「日本の音」を思い浮かべる時、僕の頭には「わらべうた」や「祭り」がまず思い起こされます。それらは各々の土地で豊富なバリエーションを誇っていて、どれもがその土地と深く結びついた何かを感じさせるものです。土地が育んだ音であり、先祖代々流れる血が運び出した音です。こういう音は、近年量産されている数多の音楽とは少し違った響きを内に秘めているように思います。
私心を捨て、一つ一つの音が出てきた元の場所を紡いでいくようなイメージで音を整える事にしました。元の場所と言っても、演奏者という意味ではありません。誤解を恐れずに言うと、演奏者の後ろにある大きな源。空想と言ってしまえばそれまでですが、そんな不思議な場を確かめながら、そこと音をきちんと紡いでいくような、そんな作業を繰り返しました。曲の意志が曲そのものを作り上げていく、それをただ助ける、そういう不思議な作業でした。エジプトの魔術師の言葉に『魔術をおこなうのは私ではなく、再現するのも私でない』とありますが、出来上がったCDを改めて聴き直すと、タイ・レイ・タイ・リオとは、そのようなものであったと痛感しています。
何をやったかよく分からないというのが本音です。神社に例えると、お社を無くして、門を無くして、しめ縄を外して「あなたは何をしますか?」と言われた状況で、出てきたものというか。周りにあるものをちょっとずつそぎ落としていって、真ん中にあるものに触れたかった。本当にそれだけで。だから意味なんてなくていいんです。それに触れたかっただけというのが本音。生まれてはじめて海を前にするような、そんな感覚まで戻りたかった。ただそれだけなんです。
宮沢賢治の話には、クマと人間、自然と人間、銀河や宇宙と人間など、語り合っている対象が違うんですよね。アルバムには神話集も付いているのですが、昔からそういう話が好きだなと思います。「人と人」というのもいいけれど、そこから一歩出た世界ときちんと向き合っているようなものに惹かれます。
そう、行間を読むような。文字なのにイメージが浮かび上がってきて、色が見えて音が聴こえて感動して、泣いていたりする。でも、よく見るとそこにあるのは印刷された文字なんですよね。文字そのものに感動してる訳じゃない。最近、宮沢賢治などを読み直しているのですが、情報としてはほとんど書かれていないんですよ。でも、何でこんなに透明感や凛とした雰囲気が出てくるんだろうと思っていたら「ああ、書かないことで嘘をつかなかったんだ」と気付いて。
冷静に考えると見たまま、感じたままって表現できないって気付く。外に広がる世界も自分の中に広がる世界も、あまりにも広くて情報が多くて、こぼれおちていくものがあって。鳥の鳴き声一つ伝えようと思っても、本当は数万個の言葉で表現しても伝わらないレベルのものだと思うから、一つの言葉だけ言うと嘘っぽくなってしまう。だから、逆に伝えたい、残したい真ん中にあるものは触らない。本当に伝えたい部分は表現せずに、他の情報をドーナツ状に並べていく。伝えたいものは真ん中にあるんだけど、その周りの情報を聴いてもらう。そうすると、本当に伝えたい部分が勝手に立ち上がってくるから、それを楽しんでほしいと思います。