fav. stylish
November 8, 2009

南:私が思うのは、「AはBである」と言ったときには、この格好には「裏」が隠れているんですわ。「AはBである『と思う。私は』」という「と思う。私は」の部分が、普通の理論では隠れているんです。

 非常に権威のある科学者が「AはBである」と言うと、みんな「そうかな」と思う。しかし、この話には括弧が付いている。「と思う。私は」って。

 そうすると、この「と思う」というところの根拠は何か? 次の「私は」というのは誰なのか? それを我々は問わざるを得ない。これが仏教ですわ。

 「霊はある/霊はない」。この話には「と思う。私は」というのが隠れている。仏教が見ようとしているのはここなんです。「Aはある/ない」の部分は、「と思う。私は」によって、どうとでもとれるんです……どんな理論でもできる。問題はこっち[『と思う。私は』]なんです。なぜその人は「と思う」のか? その「思う私」とは誰なのか? ブッダが見ようとしているのはそっちだと私は思うんですね。

「愛する、それは向き合うことではなく同じ方向を見つめることである」
サンテグジュベリ
November 7, 2009

空間というのは緊張感が規定する場。

サイの目は幸せ・不幸せどちらに振れるかわからない。

それならば、振ってみた方がいいと言うか、それとも、サイの目に頼らない道を選んだ方がいいと言うか。

それは、その人の人生観によっても異なるでしょうね。

私は極めて楽観的な人生を歩んでいますが、結婚や恋愛に関しては例外のようです。

 

サイの目の話で言えば、たとえば私が私のためにサイコロを振るのはいい。

けれど、その方が幸せになれる目もあるからと他人のサイコロを振るような真似は、私は傲慢だと思っています。

artpixie:


(via *Artpixie★*)
My Work

artpixie:

(via *Artpixie★*)

My Work

どのような行為をとるかが、その人を規定する。
仏陀のごとく行為すればその人は仏陀になる。
だから仏教者は所作を大切にする。 仏教にせよ、キリスト教にせよ、

 
宗教は、その本質に反人間的なものを含んでいる。
そこから人間性への回帰の運動もあり、そのせめぎ合いが緊張感をもたらす。

仏教は、苦というものがなくなるなどとは考えない。

苦はなくならず、それでも生きていく方法を教える。

dannnao:

seepassyouagain:

外国人の知人が「茶室の入り口はなぜあんなに小さいのか」というので、私はしたり顔で「刀を持って入れないように。茶道はもともと武士のアートだったからです」と答えた。彼女はおお、と呟いてメモをとった。

茶道に興味があるのではない。高校の文化祭で茶道部の点てたお茶を飲んだことくらいしかない。この知りあいが「今度お茶に行く」というから、予習しておいたのだ。

知りあいの(お箸の国の人でない)外国人たちがあまりに正確に箸を遣い、同席する日本人の手つきをじっと見るものだから、仕方なく自分の箸使いを矯正した。
箸使いの綺麗な人に指導を依頼した。食事のたびに地味に努力した。正しい方法を会得して間がないので、長時間箸を使っていると中指が攣る。

日本人、あるいは日本にきて長期間経っている外国人が相手なら、私は平気で日本文化に対する無知を晒してにこにこ笑っている。畳の縁も踏んじゃう。

でも、今年日本に来ました、みたいな人に対しては、ちょっと無理をしてでも、自分が「正しい日本人」であるかのように振る舞う。
見栄だ。何に対して張っている見栄かは、よくわからないのだけれど。

もしかしたら、あの気の良い日本好きの外国人たちは、私が「正しい日本人」のふりをするためにけっこう頑張っていることを、ほんとうは知っているのかもしれないな、と思う。そうして、日本的なものを見てキャーキャー喜ぶガイジンの役回りを楽しんでいるのかもしれない。

November 5, 2009
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ガムラン、出産はバリ。カラダの奥より湧き上がってくるものをかんじてやまない。テンションあがる。

November 4, 2009
江戸時代には、私たちがすでに捨ててしまった「始末」という考え方があった。この考え方は、始まりと終わりをきちんとして循環が滞らないようにすることであって、単なる節約の意味ではない。江戸時代の現実認識は、あらゆるものには始まりもあるが、当然終わりもある、ということであって、際限のない膨張や連続や増加は考えてもみなかった。時間感覚も同じである。私たちの時間のイメージは未来(もしくは終末)に向かって一直線に進んでいくが、江戸時代の時間感覚は四季のように循環サイクルだったのである。人の一生でさえ、60歳を迎えればもとに戻った。
November 3, 2009

入院中のきついことと言えば、癌そのものより治すための薬。こいつがきつい。癌の痛みはモルヒネ的なもので散らしてくれるからそんなでもないんだけど、点滴で入れる薬がキツい。気持ち悪くなるわ味覚は変わるわで結局口から飯が食えなくなった。オレ170センチなんだけど45キロまで体重落ちたよ。さすがに夜中自慰する元気は無くなりました。

あとお約束だけど、髪がね、抜けてくるんだ。まあオッサンだし病院の中ならどってことないんだけど、ベッドにばらばら落ちるからウザいんだよね。だからみんな坊主にするんだけど、バリカンは2番目に好みな看護婦さんにやってもらったさ。スキンヘッドもそんなに悪くなかったよ。オレ絶壁だけどね。

こんな感じで、リンパ腫になって入院したわけなんだけど、どうってことなかったよ。少なくともオレは。いくら痛いつっても、死ぬかもしれんなんて実感わかないし。風邪ひいて39度の熱が出たって、死ぬとは思わないっしょ?そんな感じ。

でもここで気をつけたいのが、周囲の反応。やっぱ癌になったつうと、みんなすげえ悲壮感出ちゃうんだよね。見舞いの人とかメールとか。これがヤバい。オレが思うに、病人てのは自分では自覚が無いんだけど、周りの同情がそのヒトを本当の病人にしちゃうと思うんだよね。そうなるとヤバい。周りがやたら悲しんでるから、自分も悲しくなっちゃって恐怖心がもたげてくるんだ。まだ死ぬと決まったわけでもないのにね。

オレなんて冷めた大人のうえに自分大好きのナルシストだから告知されたときも泣かなかったし、臨終のときどんなセリフで決めようかとか葬式100人来てくれっかなとかそんなノリだったけど、お見舞いに来てくれるヒトに泣かれるのは本当キツい。自分のことは自己責任なわけだしどうってことないんだけど、他人が自分のせいで悲しむのは堪える。下品な冗談とか飛ばせる雰囲気じゃないし。結局殊勝に病人らしく振る舞うしかなくなって元気もなくなるって悪循環なんだよな。

もし知り合いにそういうヤバめの病気になったヒトがいたら、そのヒトに対しては普通に振る舞ってほしいと思う。ウソでも何でもいいから、普通に遊びに来たノリで。それが患者にとっては一番救われることだと思うからさ。

正しく見るためには二度見よ。
美しく見るためには一度しか見るな。
アミエル(哲学者) (via nobaba1981) (via nemoi) (via tubasa) (via kondot) (via nagas) (via tsupo) (via ssbt) (via rogu)