南:私が思うのは、「AはBである」と言ったときには、この格好には「裏」が隠れているんですわ。「AはBである『と思う。私は』」という「と思う。私は」の部分が、普通の理論では隠れているんです。
非常に権威のある科学者が「AはBである」と言うと、みんな「そうかな」と思う。しかし、この話には括弧が付いている。「と思う。私は」って。
そうすると、この「と思う」というところの根拠は何か? 次の「私は」というのは誰なのか? それを我々は問わざるを得ない。これが仏教ですわ。
「霊はある/霊はない」。この話には「と思う。私は」というのが隠れている。仏教が見ようとしているのはここなんです。「Aはある/ない」の部分は、「と思う。私は」によって、どうとでもとれるんです……どんな理論でもできる。問題はこっち[『と思う。私は』]なんです。なぜその人は「と思う」のか? その「思う私」とは誰なのか? ブッダが見ようとしているのはそっちだと私は思うんですね。